「潜(もぐ)る・点と線へ」矢野静明展 2018年6月22日(金)〜7月1日(日)
矢野静明展では6月24日(日)の14時から約90分間のギャラリートークが行われました。
当日は定員を追加し、14名の方においでいただきました。ギャラリートークでは矢野静明氏の絵を描き始めたきっかけとなる幼少時代の話から、今回の個展のテーマである「点と線」に対する考えをお聞きすることができました。後半には出席者による質疑応答があり充実した時間となりました。
当日のギャラリートークの模様を2回に分けてご紹介いたします。(1)ではトーク内容を、(2)では質疑応答の模様をお送りいたします。
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「潜る・点と線へ」矢野静明展 ギャラリートーク(1)
主催の佐々木より矢野静明氏のご紹介ののち、ギャラリートークが始まりました。
(経歴は展覧会案内のページをご覧ください)
矢野 では、よろしくお願いします。ギャラリーフォリオは、半分がデザインフォリオというブックデザインの事務所になっています。いま司会をされた佐々木さんと岩橋さん、お二人の仕事場です。お二人が勤められていたタウハウスというブックデザインの会社が四谷にあり、代表の鈴木さんとの関係から、そこでお二人と知り合いました。その後、鈴木さんが仕事をやめられたので、新しい事務所がここにできて、ギャラリースペースを今度始めたいと連絡がありました。
ギャラリーはまだ出来たてです。僕も初めて来たときは、この小ささで個展をやるのはなかなか難しいなと思ったのですが、窓側に新しい壁を作ったりして、小さいけれど面白い空間になったので、これならできるんじゃないかとなりました。皆さんにも来ていただいて嬉しく思っています。
僕の絵は、パッと見てすぐ分かる絵ではなくて、見るのに少し時間のかかる作品ですから、あとでゆっくり見てください。それから、そこがお手洗いですが、中の壁に2点小さい作品が掛かっていて面白い空間になっています。
皆さんにお配りした資料があります。「伝達衝動をわずかしかもたない」という僕の書いた文章が載っている『座間草稿集』という、ちょっと変わった雑誌があります。それを一緒にやっておられるお二人も来られていますけど、その文章を使います。
僕のアトリエは神奈川県の座間市にあります。なんでこういう雑誌が出たかといえば、元をただすと、きょうは来られてないですが詩人の瀬尾育生さんが個展に来られたとき、「みんなでちょっと集まって現代美術の話ができないだろうか」と言われたので、「じゃあ僕のアトリエに集まりますか」ということから始まり、ここにおられる詩人の倉田比羽子さんと須永紀子さん、それからもう一人、築山登美夫さんという方は去年の十二月に突然亡くなられたんですけど、その五人で集まって、座間のアトリエで美術のいろんな話をしてきました。僕以外は全員詩を書かれています。
フランシス・ベーコンとかキーファー、アウトサイダー・アートのヴェルフリ、表現主義、カンディンスキーと、一回ずつ選んでいますが、そうやっていたら、また瀬尾さんが、「集まっている人で、なんか草稿集みたいなのをやってみたい」と。「草稿集ってなんですか」と尋ねたら、「完成稿以前の、まだ発表できないようなものでもいいから、みんなで読みあうようなものをつくってみたい」と言われたので、みんな書くのは専門ですから、すぐに始まりました。
それで1と2が出て、一応三十部ぐらい作っています。たぶんこれ、皆さん読まれている方のほうがもちろん少ないですけど、それを使って、ちょっとやってみたいと思います。
「伝達衝動をわずかしかもたない」というタイトルは、小説家ロベルト・ムージルの言葉から取ったのですが、これは自分が絵を描いてきた体験について考えながら思いつきました。
最初にゲルツェンの『向こう岸から』という本にある言葉を引用しています。ゲルツェンは現在ではあまり読まれていません。僕はたまたま知っていましたけど、十九世紀ロシアの著名な作家でありナロードニキの重要な思想家です。そのゲルツェンが書いた短い文章の中から、これは僕が好きなところを引っぱったものですが、「われわれは子供が大人になることから、子供の目的は大人になることだと考えています。しかし子供の目的は遊ぶことであり、楽しむことであり、子供であることです。もしわれわれが行き着く先だけに目を向けるならば、生きとし生けるものの目的は「死ぬこと」になります。」とあります。
ゲルツェンらしい書き方ですけど、人間というのは、前に前に成長していくっていうか、そうやって成長することだけが目的ではなくて、ある状態にいるということ自体も目的なのであり、子供にとっては子供であること自体が目的なんだと。もちろんあとで否応なしに成長していくのだけど、大人になるためだけに子供時代があるわけではないとゲルツェンは言います。
最初にゲルツェンの言葉を持ってきたのは、自分の絵画体験と通じるところがあるからです。そのことは草稿集に書いてあるのであとから読んでもらいたいのですが、自分の絵の始まりの記憶というのは、だいたい小学校に入る前で、これはすごくはっきりしています。
なんでそれが自分の中ではっきりしているかというと、宮崎にある実家は、農業はしていなかったのですが、農家造りの古い家で、広い土の庭があって、その庭に硬い棒で線を引いて絵を描いていました。そのときに、例えば飛行機とか船とかを描きながら、その隣に大きなひらがな文字を書いていたんです。ひらがなを書いていたのは、小学校に入る前に自分の名前が書けるようにというので練習していたからです。
父親が国語の教師だったので、横で見ていて直してくれるわけです、ひらがなの文字を。うまく書けないでいると父親が寄ってきて、ここはこうだという風に直してくれる。そうしながら、庭の半分ぐらいで絵を描いていました。それで、自分が線を引いて絵を描いていた記憶をたどると、小学校に入る前ということに自然となります。
ですから、学校で教えられる絵と、自分ひとりで絵を描く行為の間には、どうもずれがありました。で、このずれが長く続いて、実はいまでも続いている。というのは、個展を最初にやったのが二十三、四歳ぐらいのときですけど、それまでも画廊に行って個展とかは見ていました。
最初の個展は、僕がやりたいと思ったのではなく、宮崎でときどき絵を見てもらっていた年長の友人が準備してくれました。年長の友人といっても、向こうが40歳ぐらい上でしたが、その人から「一回絵を並べてみよう」と言われたので、宮崎の画廊を借りてやったんですね。それが最初でした。知らない人が絵を二点買ってくれました。
それから大学を卒業直後に銀座の貸画廊を借りて、東京で初めて個展をやりました。そのときに、自分が個展をやることに、奇妙な違和感があったのを憶えています。絵を描くということと人に絵を見せるっていうことのつながりを、自分で納得できてないのが分かるわけです。ということは、見せる必要がないとどこかで思っていたのでしょうね。自分の絵は見せる必要がないところでできているのに、画家になるために個展をやったり人に見てもらったりするということが、どう考えても上手く納得できていない。
そうすると、そこの何かひずみみたいなものをどう考えたらいいのかということがなかなか分からなかった。
草稿集の最後に、2014年の八戸市美術館の展示風景と、今年(2018年)の宮崎県立美術館での展示風景の写真を一枚ずつ入れてあります。八戸美術館のときは、一点75×55 cmの紙にパステルで描いたものを連作で横に並べています。その同じパステル画四十八点を宮崎の美術館では一つの作品として展示してみました。
八戸の美術館での、横一列の展示はオーソドックスなもので、これは自分が絵を描いている状態に合わせた展示の仕方です。つまり、アトリエで描くときには、一点ずつ目の前に置いて描くわけで、それに一番近い状態の展示の仕方です。ですから、これは、アトリエでの作品との距離間に従って美術館に並べたものです。
その後、宮崎の美術館から依頼がきたとき、あの美術館は壁の高さが六メートルぐらいありますが、最初は八戸と同じように横に並べようと考えていました。その後で考えが変わって、自分で描いた作品をアトリエで描いている視線とは異なる形に並べてみたいっていう気持ちが起きました。
どういうことかというと、縦が五メートル近くあるので、天井に近い上のほうは、肉眼では細かいところが見えません。この作品は全部点描なので、至近距離で見ないと、細かい点は見えない。八戸の美術館みたいに並べれば至近距離で全部見えますけど、宮崎の美術館だと上のほうははっきりしません。
自分の描いた絵を、描いた自分が見るというんじゃなくて、展覧会に来た人が見るっていうことに、視線の基準を転換して並べてみたいというのがありました。どうしてそういうことをするのか、本当は自分でもよく分からないですけど、自分と作品との間に距離をつくってみたい。それは、さっき話しましたけど、自分が描くことと、作品を並べることの間にずれの感覚があって、そのずれを消すのではなく、逆に意識的に拡大してみたいって思ったんですね。
宮崎の美術館で友達が、「お前、この並べ方だと上の方の絵が全然見えない。横に並べたほうが絵はちゃんと見えるだろう」と言いました。もちろんそうなんですね。そう考えるのがまともですけど、絵を描くことと、絵を見ることの関係を、自分の作品を使って一度考えてみたいと思っていたので、八戸の美術館と宮崎の美術館の壁が大きく違っていたこともあり、実際にやってみました。
これで何か結論が出たわけではなくて、やはり自分にとって、描くということと見るということの間に存在する問題は残ります。
僕の絵は、ご覧になると分かると思いますけど、すごく描きこみます。この黄色い作品がたぶん今度の展示の中では一番描き込んでいますけど、これぐらいの画面の効果だったら、筆で塗ってもできるんじゃないかと思ったりもする。ただ、点を打ち線を引き長い時間画面に向き合っているのは、それこそ子供のときに庭に線を引いているときと同じような、その状態をつくり出したいという欲求があるような気はします。
普通ペンとインクだと紙に描きますけど、僕は硬いキャンバスに油絵の具を塗って地をつくる。あるいは木の板を使います。この元のイメージは庭の土です。自分ではよく分かってますけど、硬い地面をひっかくとか、線を引くとか点を打つという感覚を基本にしている。そうすると、自分の絵は、見るということ以上に、描くということを中心にして生まれてくる。描きたい衝動があって、そのあとで、見るということにつながっていく。極端に言えばそういうことになるでしょう。
それでたぶん、個展とか展覧会で人に見せるということに対する、違和感や齟齬が生まれるんじゃないですかね。見せたくないなら、自分が描いて、自分が満足するだけでいいじゃないかという話になるし、そういう人も実際います。ヘンリー・ダーガーというアウトサイダーアートの代表的な画家がいますけど、この人などは死ぬまで一度も発表しなかった。他人に見せずに、絵を全部机の中にしまっていて、死んだあとに作品が発見された画家です。
もう一人は、ジョン・バージャーの書いた『見るということ』に出てくる、ロメーヌ・ロルケという女性彫刻家です。この人はパリに出てブランクーシやジャコメッティと知り合って、そのあとは田舎に引っ込んで製作を続けた。家の外にある農園みたいなところに彫刻を置いたまま、草が茂ってくると埋もれて作品が見えなくなる。
ロルケの作品はバージャーの本に掲載されている一枚のモノクローム写真以外は見たことがありません。ごつごつした石の塊のような不思議なものです。そのバージャーの短い文章はすごく強い印象があって、つまり、作品をつくることの根源みたいなところをたどっていくと、こういうロルケみたいなあり方になっていくということもある、可能性としてはね。まったく人に見せない、ただ作り続ける。で、その作品も草の中に埋もれていく。
ロルケのことを考えると、人が作品をつくる欲求とはどういうことだろうと考え、同時に、それを人に見せるとはどういうことだろうと考えます。描くことと見ることの、この二つのつながりが消えない問題としてある。解決がつかないけれどもずっと考えています。
この年齢になって、まだそういうことを言っているのもおかしいですけど、とにかく誰もいないところで庭に線を引いている、そのことが自分の絵の始まりなのは確かです。
自足するっていうか自分の中で全部満たされる状態は本当にまずいことなのか、外部を持たずに閉じるのはよくないことなのか、というのをよく考えます。これは自分を閉じたい、外部を遮断したい欲求が自分にあるということではなくて、閉じると開くは人間にとっては否応なく起きうることで、この二つに人はどう対処してきたかが気になるわけです。
草稿集にも書いたんですけど、教育と政治という言葉があります。生まれた人間は、最初から教育と政治の場に放り込まれる。すべての人間がそうです。つまり他者からの介入を受けるということですね。じゃないと生きていけない。赤ん坊一人では生きていけないから、育てる人間のある種の介入があり、さまざまな教育的配慮もほどこされる。それから、家族関係の中では、親子とか兄弟との力関係もあり、人間関係の力学が働く。これも広い意味では一種の政治です。
そうすると教育と政治というのは、人間が生きていく過程で必然的に発生するものです。人間は必然的に外部に開いた場所に生れ落ちる。と同時に、自分一人の内部に空間を持っている。外に開かないで内部に保存し閉じる形で持っているものがある。人間であれば誰でも、自分の内側と外側の領域の間で起きる関係と違和というものを死ぬまで持ち続けます。
たいていの人間はその二つをかかえこむ。社会に出てはいくけど、自分の内側が外側となじまない何かを絶えず持ちながら生きていく。それは別に絵のことだけには限りませんけど、人間の内部で発生したものが、外部に現象していく、そのプロセスへの関心が、絵を描きながら、ずっと続いているわけです。
今回のように点と線の仕事を展示するのは、これが三度目です。さっき言いましたように、自分にとって、線を引くことが絵を描く記憶の中では一番古い記憶です。それをいままであまり並べてこなかったのは、やっぱり自分に一番近いものは客観化できていない感覚があって、作品以前の状態という感じがずっと付きまとうからです。いま、こう並べていても、やっぱりそういう感じがする。庭でひとり線を引いていた、それをそのままここに持ってきているという感じでしょうか。
最後にエピソードを一つ話します。
小学四年生のときでしたけどけど、図工の時間に教室の外に出て、竹ペンを作って墨汁で絵を描くという授業があったんです。校庭に出て、自分の好きなものを描いてきなさいと言われたので、登下校の途中でよく見ていたさるすべりの木を描こうと思い、木の前に座って描いていました。その描いていた途中である感覚が訪れました。その記憶は今でも鮮明で、そのことをずっと前から言葉にしたいと思っているんですけど、うまく言えないのです。五十年以上前のことですが、自分が納得できる言葉に出会えない。
このことも草稿集に書いています。後ろから三行目の「最後は」というところからです。
「最後は小学校四年の図工の授業で、校庭にあったさるすべりの木を描いていて、線描の線と描いていた木の枝が紙の上でつながったと感じた時」とあります。さるすべりの話の前に、別の体験話を二つ書いていて、「最後の、さるすべりの木の体験が一番説明の難しいものだが、何かを写すのではなく、引かれている紙の上の線が、自の前に立っている一本の樹木とまったく同一のものとして伝わってきた。もちろんその時は感覚的に受け取ったまま、それ以上のことは考えなかった。現実の木の枝と引かれた線が同じになったとはどういうことなのか、言葉での説明はおぼつかないが、感覚としては、紙上の線と木の枝はつながって一つのものになっていた。引かれた線の形と木の枝の形が図形として似ているというような意味ではなく、引かれた線は木の枝と同じく確かな事物であり、世界に等しく存在しているという感覚に近い。」とこのときは書いています。でも書きながら、これはちょっと違うなあと思っていました。
接神体験というのがありますね。神に接する、神が見える、よくキリスト教で語られる神秘体験のひとつです。言葉で言うと、それに一番近いんです。だけど、あれは神あるいはキリストが見えるのであって、僕に見えていたのはさるすべりの木だけです。「木が見える」という、言葉にするとそれだけの話なのですが、これだと、普通に木が見えているのとの違いが、全然説明できない。だからといって、自分には神が見えたと言えば、これはうそになります。神なんか僕には見えてないのです。
例えば木の魂とか、木の霊が見えたと言ってもやっぱり違う。自分に見えているのはほんとに木だけなんですね。木そのものだけど、その木の形を紙の上でなぞっていくときに、紙の上の線がさるすべりの木の枝そのものになって、さるすべりの木の枝は絵の線そのものになってつながっていく。しかし、どうしてそれが自分に起きているのか分からない。
これはたまたま読んでいた本ですけど、マルティン・ブーバーという宗教学者、哲学者がいます。この人が一本の木について書いている。樹木に出会うということを『我と汝』という本に書いています。ブーバーが言うには、樹木に出会うとは、分析的に事物として樹木に出会うのではなくて、それがある種の人間と関係をつくる、あるいは関係を満たすことがある。最後のところだけちょっと読みますね。
「それならば、樹木にはいったい意識があるのであろうか。樹木はわれわれに似ているのであろうか。それはわからない。しかし、それがあなたがたにとって好都合であるからといって、さらに分析できないものを分析しようとするつもりなのか。私は樹木の精とか森の精にいまだかつて出合ったことがない。出合うのは、ただ樹木そのものである。」とブーバーが書いています。これを読んだとき、これはまさに自分の体験そのものだと思いました。自分はブーバーと同じだと思ったのです(笑)。もちろん、ブーバーの「樹木そのもの」と、僕が見た「さるすべりの木」の意味は違っています。ブーバーの「樹木そのもの」は、我と対等に向き合う「汝」的存在ですが、僕の見た「さるすべりの木」は、もうすこし超越的次元を含んだ、いくらか高みにある次元を感じさせました。
いずれにしろ木そのものです。だから、それを言葉にすると「私は木を見た」ということになります。でも、「私は木を見た」という言葉だけでは、自分の体験が言葉になっていない。だけど、ほかの言葉に入れ替えると別のことになってしまう。たぶん、詩の言葉はこのような場面で生まれるんじゃないかと思いました。
つまり、自分が体験した「木を見た」と、日常的な「木を見た」では言葉としてはまったく同じだけど、そこに含まれている体験の違いがある。しかし、それを語るために、ほかの言葉で説明して別のことにしてはいけない。「私は木を見た」という言葉以外の言葉にしてはいけない。どうしても別の言葉で「私は木を見た」を語るのなら、詩の言葉が必要になる。文学的という意味ではなくて、説明的ではない、より直接的な別の言葉がおとずれて来なければいけないのだけど、自分にそんな言葉はおとずれてこない。「私は木を見た」としか言えない。言えないけど、その時の「木を見た」は、それまでの「木を見た」と、まったく次元が異なっていました。そのさるすべりの木が、この世のものではないのなら、神を見たともいえるけど、だけど僕が見たのは、まぎれもなくさるすべりの木ですからね。
ただそのときに、なぜだか絵を描くということが分かった気がしたのです。線を引きながら、自分は絵を描くということをはっきり知ったように思えた。だから、自分はそのときに絵描きになったと、画家という職業は知らなかったんですけど、絵を描くということを、自分は知っている人間だと、そのときにひとり気づいている気がしました。
そのあと美術サークルとか参加したこともないし、美大にも行かなかったのですが、自分はすでに絵描きになっていると思っていました。それは職業的にとか、絵がうまいとかそういうことではなくて、絵を描くことが人間には与えられている、それが自分にも与えられている。それをそのときに知ったということでしょうね。それが10歳ぐらいのときです。そういう意味では、そのときから何一つ進んでいないし成長もしていない。ゲルツェンの言った「子供の目的は子供である」という言葉に引き付けられるのは、そのためだと思います。
時間があるので、皆さんから質問をしてください。分かりにくかったですか。分かりやすいとは思えないけど(笑)。
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