「潜(もぐ)る・点と線へ」矢野静明展 2018年6月22日(金)〜7月1日(日)
矢野静明展では6月24日(日)の14時から約90分のギャラリートークが行われました。
(1)から続きまして(2)では質疑応答の様子をお送りいたします。
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Aさん いいですか。
矢野 どうぞ。
Aさん 子供のときに木を見ながら描いたその線というのは、目の前に木があって、それを描こうと思って描いていたと思うんですけど、いま描いているこういう絵の点や線は、何かモチーフを見ながら描くわけではないと思います。その二つの線の間にどういう違いがあるのか。または同じところがあれば。
矢野 つまり、さるすべりの木から僕は線を引くということを与えられたということです。だからもう、さるすべりの木はなくてもいい。線を引くという行為が自分に与えられたと思ったのです。あとは、もう線を引けばいいと思った。どんな線を引いても、それはぜんぶ絵なんだということですね。さるすべりの木がそれを自分に与えてくれた。だから、大変にありがたい木なんです(笑)。
そのときは三人ぐらい並んで描いていましたけど、自分だけが何か違うものを見ているという感覚にとらわれながら、それを隣の人には全然伝えられない。描き終わったら、そのまま教室に戻って絵を先生に渡すだけ。でも、自分の中ではもう決定的に何かが起きたという感覚が体に残っていました。あんまり言うと、すごく大げさになるのでね(笑)。ほんとに神様に出会ったぐらいの話になるので、これは難しいなと思いますね、言葉にするというのは難しいです。
Bさん さるすべりは、葉は付けてなかったんですか。
矢野 なかったね。さるすべりの木はだいたいつるっとしているでしょう。だから、たぶん、さるすべりの木を選んだと思うのね。描きやすいというか、線を引きやすいなと思って。
Bさん じゃあ、夏じゃなかったんですね。
矢野 夏じゃない。そうですね、夏じゃない。花もなかったしね。ほんとにそのままむき出しで。そのあとも小学校にその木はあったので見に行ってました。ときどきあいさつをしてね。触って、こうやってあいさつを。何の変哲もない木だけどね。
Cさん いまずっと絵の話だったんですけど、当然、小さいころから、絵以外にもいろいろ思い入れのある芸術とか、物語とか、小説とか、音楽とかございますよね。そういうものに対する興味というのは、どんな形で持っておられたんですか。絵とは関連がなかったということなんですか。あったのかどうかを含めて。
矢野 僕はね、本はほとんど読まなかったです。二十二歳ぐらいまできちんと読まなかったですね。二十二歳って僕が大学に入ったときなんですけど。家にいても、すぐ外出して、親に「どうしてこう落ち着きがないんだ」って言われていました。だから本の世界に入るとか、そういうことは全然なかったです。でも、本という形は好きでしたね。図書室も好きでした。紙の匂いとか、本を触るとか、ものとしての本は好きだったんですけど、読む根気がなくて、全然読めなかったですね。だから、読書感想文とか書けなかった。本を読まないから書けるわけないですけど。
絵だけは、そういう意味では特別です。絵とつながるけど、漫画は好きだったです。漫画をストーリーではなく線で見ていたというのはあとで気づいたんですけど。漫画家の線は全部違うというのを小さいときから感じていて、この人の線はこうだとか、線の性格で漫画家を選ぶんです。
ストーリーなんかどうでもいいということはないけど、一番好きだったのは、寺田ヒロオという人の野球漫画ですけど、ストーリーはすごく平凡なんですよ。品行方正な背番号ゼロの何とか君というのが主人公で、日常生活がそのまま描いてあるだけです。ごく普通の少年の話なんだけど、線がほんとにきれいだと感心してました。よくまねしてました。
その人の線と、もう一人、関谷ひさしという人の『ストップにいちゃん』というのがあって、その人の線は針金みたいに細い線できれいでしたね。その二人の線が、僕は好きでしたね。ストーリーは全然覚えてない。でも、線はいまでも記憶に残っています。両方とも残っています。赤塚不二夫も残っています。少女漫画で『チャコちゃんの日記』の今村洋子も好きでした。あのころの漫画家の線はほんとにみんなきれいでしたね。
Dさん ちょっといいですか。いま現在絵をお描きになっているときに、分解されて、色と、それから形の中で線と点がありますよね。その線の話をずっとなさっていたんだけど、いつごろ点で描くことに目覚め始めて、どんな理由だったのかみたいなことと、いま現在描かれているときに、その絵の色と点と線。この三つが、矢野さんの絵を見ていると、いつも僕はそういうふうに思うんですけど、それはどんなふうな関係で絡み合っているんだろうかということについて、もしよかったら。
矢野 そうですね。いや、難しい質問をしていただいて(笑)。そうなんですよ、点はなんで出てくるんでしょうね。
Dさん いままでの話は、ずっと線の話が多かったですね。
矢野 線の話ですよね。
Dさん それがいつごろ点になったのかなと。僕はちょっと点のほうにすごく興味があるんですね。
矢野 点はいつから打っていたか。
Dさん ほとんど線と同じぐらい?
矢野 同じぐらいのときかな。全然自覚がない(笑)。
Dさん 点も線も変わらない。
矢野 線は意識的に引いているけど、点は無自覚ですね。これだけ点を打っておいて、無自覚というのもあれだけど。僕の絵は基本的には線から始めるんですよ。
Dさん 具体的に言うと、線があって。
矢野 線が出てきて。
Eさん さっきの話では、最初にキャンバスに油彩で色を塗るわけですか。
矢野 ええ。シルバーホワイトで全体に硬い地塗りをして、その上に色を付けているんですね。黄色とか薄い色を塗ってふき取る。それから線をペンで引いていきます。その線が途切れて点になっていく。
Eさん 僕が最初にすごく印象深かったのは青い色だったんですけども、いまはだいたい黄色が多いですよね。
矢野 線の仕事のときに、なんでこういう色を選ぶかというと、これは黄色ですけどね、地表の色に近い。イメージとしては自分が描いていた庭の色に近い。線が見えやすいというのもあるかな。
Eさん ちょっとよく覚えがないんだけど、青い水彩画の中にも点、線が。
矢野 あれは色を塗る前に描いています。青の中に線と文字とかが全部沈んでいるという状態ですね。だから、青い水彩にも点と線はあるけど、それはもう色の仕事です。線を引くという行為は、さっき言ったように、5歳ぐらいのときに始まっています。それと別に、色というのは、これは僕が生まれる前から存在する感覚で、自分ではコントロールできないという感じがありますね。
青というのは自分には正確に見えていない。赤とか黄という色は正面から来るので見えている気がする。対処できるというか、対応して調整もできるし、コントロールできる。それと違って、青というのは、自分の後ろ、背後から来る感じです。しのびよってくる感じがする。背中の方から浸透してくるというか、青を使っていると青の中に沈み込んでいくような感じで、自分でコントロールしている感じがしない。だから、僕は青の仕事は長い間できなかった。青は大変好きな色ですけど、自分が青を使えるという自信がなかった。何か飲み込まれるという感じがすごく強かったです。
しばらく前から青の絵の具を大量に買ってやり始めたんですけど、やっぱり今でもうまくいっていると思わないし、一番苦労します。でも僕は、自分の青の作品はいい作品だと思いますね。色としてきれいというよりも、青という色が持っている何かに触れている気はします。それは自分でも分かりますね。視覚的な効果や、青が与える心理的効果ではなくて、さっきのさるすべりの木じゃないけど、青自体がなにか存在として外部にある。それに触れるような感覚が絵に現れると、いい絵になりますけどね。
Eさん でも、点はいつも黒ですか。
矢野 点は、赤も打ちますね。
Eさん 赤も打つんですか。
矢野 打ちます。青も少ないけど打ちます。だけど、いま言われても、ほんとにこれだけ点を打っていても、点のことは全然考えてないですね。勝手に出てくる。
Eさん 矢野さんの点がどんなふうにして打たれたのか、どんなふうにしているんだろうかということに、ちょっと興味があったものですから。
矢野 いつもね、たくさんの点を打つのはやめたいなと思っているんですよ。これだけ時間がかかって、こんなのは生涯に何枚描けるか分からない。もう少し効果的な描き方、これだけ時間をかけて、これだけ売れなきゃ、おまえはどうするんだというのがあるんだけど。でも、描いていると、点になっていきますね。線がいつのまにか点になっていく。
Fさん 矢野さんの絵の特徴の一つというのは、遠近法がない。
矢野 ないですね。もともとないですね(笑)。
Fさん それがやっぱりとっても特徴的だなと、ずっと思っていて。あと、例えばそのぐらいの大きさの絵を全部埋め込む形で、全部真っ黒にするような形で描いていく方法は分かるんです。言葉をもう次から次へとこう。私の詩の書き方はそうなんですけど。
矢野 書かれるもの全部ですか。
F質問者 うんうん、もうだらだらだらだら書くという。悪く言うと、だらだらだらだら書いているんだけど。でも、言葉を使うと、なんとなく意味が出てくるから、そこでなにかどうしようもない気持ちになりますけど、例えば線とか点の場合は、別にこちら側が意図して意味付けする必要はないですよね。
矢野 ないといえば、ないですね(笑)。点や線は意味がなくても成り立つ。
Fさん うん。ですから、例えば一般的に絵を見たりすると、いったいこれは何を描いてあるんだろうと。こう思わなくても圧迫感として出てくるでしょう?
矢野 はいはい、そうですね。
Fさん でも、矢野さんのはあんまり感じない。感じないというか、そこを中心にして見ようとは、あんまり思わない。
矢野 たぶんそういう遠近法的な空間をつくれないというか、僕にはまったくそういう感覚がないからでしょうね、意味のない線が引けるというのは、子供のときに、例えば飛行機とか船とかを庭に描くでしょう。すると、船の形は線を引くためのある種の口実なんですよね。口実というとおかしいけど。飛行機を描きたいとは思う。だけど、自分の中に残っている感覚は、硬い棒で土に線を引く行為自体の感覚で、それまで何もないところに線を引っぱっていく、その感覚がものすごく強いです。だから、ずっと線を引いていて、それだけで楽しい。
Fさん そういう時間は終わりたくないって。
矢野 終わりたくない、ずっと(笑)。それで、夕方になって暗くなると、「あ、あした続きを描こう」と。明日の楽しみが残ってよかったなと、そういう感じはありましたね。
Fさん なにかその地面と棒を通じてというか、自分の肉体が接しているという触覚?
矢野 触覚。触覚として残っている。触れる感じです。
Fさん それがすごく快感だったということですか。
矢野 うん。その微妙な振動がある。子供が硬い土に線を引くから、カタカタとなるんだね。その振動も体に残っていますよ。
Fさん それが、さるすべりだと、さるすべりには直接触れることができないじゃないですか、手はね。だけど、それを紙という仲介を通して、やっぱり実際に木に触れているという、そういう感覚が起きたんですか。そういうのとも、また違うんですか。
矢野 その感覚に近いんだけど、何が起きたのか分からない(笑)。何かが起きているのは分かっているんだけど。つまり、それまでも絵を描いていたけど、そのときまではそういう感覚は訪れなかったのに、さるすべりの木を描いているときに、それも左側の枝を引いているときにそれが起きたのね。すーっと引いている線がさるすべりの枝と一緒になって現れてくる。一緒に現れるんですよ、紙の上の線と木の枝が。だから、さるすべりの枝と自分の引いている線が、ある意味ではイコールになってつながっていく。それがどういう感覚なのかがうまくつかめない。子供だったから余計分からないけど、いまでも分からない。なんなんだろう。
Fさん それは一回こっきりの体験だったんですよね
矢野 一回でいいんです。ええ。
Fさん またやろうとは思わなかったんですかね。
矢野 いや、自分では起こせないことだし、それに1回でいいというのか、それが起きたのが分かったら、あとは何回起きても全部同じことなんで。線を引くということはそういうことなんだと、つまりそこで木が教えてくれたんですね。あとはもう、どこで線を引いてもその線なので。この線はその線なんだということね。この線はその線だって(笑)。
Fさん でも、普通線を引くっていうのは、分断するとか視線を誘導するとか、なにか権力的じゃない。それが、矢野さんの線にはないじゃん。
矢野 ないね。
Fさん それが不思議ね。あと、点はやっぱりむしろ分散していくじゃない。
矢野 そうだね。
Fさん そう。だから、打ちながらどんどん広がっていくみたいな。この感覚を感じるなと。
矢野 そうね。だから、自分の画面には、遠近法的な視線誘導はないですね。
Fさん そうそう、誘導しない、視線をね。
矢野 そうだね。構成しないね、画面を。それに、構成しないことに対しての負い目がない。絵にしようという、そういうあれがないんだよね。
Fさん うん。もう線そのものだよね。
矢野 構築していくっていうか、そういうのが全然ないんでしょうね。そこにあるそのものでいいという感覚。
Fさん 言わば、意思がないのよ。
矢野 意思がない(笑)。
Gさん 作者自身のお考えはそうかもしれないけど、見るほうからするとかなり違う。まあいろんな見方があるけど、例えばこの絵をたまたま私の本の表紙にさせていただいたんだけど。
矢野 あとで紹介します。*
Gさん 考えてみると、やっぱりなにか非常にこう具体的なものが見えますよね。見ていて、私なんかは一つの物語的なものの構築を考えるんですけど、それがまた非常に楽しい部分があって。だから、俗っぽい形で言うけれども、単なる些細な点や線だけではなくて、結果として生じたものを、しかも作者は意識してないんでしょうけど、非常にこうリリカルなものもあるし、ヒストリカルなものも入っているし、場合によってはクレーとかそういう人との類似性も感じたりして、そこも僕は矢野さんの絵というのは面白いなと思うんですよね。だから、まったく構成的でないけれども、結果としてはやっぱり、かなり見るほうの体験からすれば意味がある。
矢野 そうですか。
Gさん ただ、作者が何を言いたいのかとか、そんなことは考える必要はないんだけど。それは、芸術一般にそういうところはありますよね。
矢野 そうですね。自分のほうからの意思とか意図はないけれど、絵を描いていくときに、その場その場で触れるというか、例えば物語的なものとか、自分の中にある図形的なものが出てくるときには、意味やイメージに触れているわけですね。だけど、そこに止まらなくて、また移動していく。ペンが移動していくというのか、線が動いていくので、別のところに行っちゃって、別のものをつくり出していく、そういうことだと思いますね。
Gさん 記憶はどうですか。
矢野 記憶?
Gさん 自分のこれまでの記憶というのは、描くときに何か共鳴するものが当然出てきますよね。
矢野 自分の記憶? あ、あります。そこから始まったことはないけど、目の前に線を引いたり色を塗ったりするときに、自分の記憶には触れますよね。
Gさん うん。
矢野 触れて、その記憶の中に入っていきながら、また脇道にそれていく。記憶にも触れるけど、その場の点自体とか、線そのものをたどっていく、ずーっと。で、また記憶が出てくるという、そういう感じですね。
Gさん それるというのは、自失の状態ということ?
矢野 そうではないです。記憶が浮かび上がってきて、じゃあそれを描こうと思って入っていくとその先がなくなるんです。霧のかかった状態みたいで、遠くから見ると霧がかかっている。で、霧の中に入っていくと、霧は実体がない。そこから向こう側にまた抜けていくという感じですね。で、向こうに何かが見えてきて、そこに近づいていく。そういうところをくり返し通過していく。
Hさん 先生は絵を描くとき、線はどこから描き始めるとかはあるんですか。
矢野 そうだね、あんまりないけど、画面の感じで言うと、画面の左の上くらい(笑)。左の上あたりです。
で、線というのは、実は引く前にほんとは見えてる。何もないと言ったけど、正確に言えば、見えている。だけど、見えているとはっきり言えば、それもうさんくさい。でも、見えなきゃ線は引けないです。やっぱり描く前に線が現れるのね。で、それを引いていきます。
シュルレアリスムのオートマティスムみたいだけど、そうじゃなくて、ある意味では見えるものを写している。だけどそれがどうしてその線になって現れるのかは全然分からない。ただ、ものすごくクリアに見えるんですよ。で、すーっとこう引いていって、途中で途切れることもあるんです、見えなくなって。だから、そこから点、点。点とこうなっちゃう(笑)。それでまた何かが浮かび上がってくる。
でも、真っ黒になるまで描きたいというのが、どこかに衝動としてはある。見えなくなるまで全部描きたいという衝動があるにはあるけど、そうなるとたぶんもう絵には見えないから、やっぱりどこかで、途中でやめるんだと思う。
Hさん 途中でやめるときの基準みたいなものがあるんですか。作品になるとき、ここらへんでやめようと。
矢野 それはね、これ以上描けないというのはあります。行為としてはもっと行けるんだけど、絵として見たときにここまでという画面になったら、絵は止める。で、それ以上にいった絵というのは、もう失敗に終わる。描き過ぎている。自分が点や線を描く衝動のほうが強すぎて、画面を壊している絵はありますね。
画面というのは、これ以上描くとこの画面は破綻しますよと、絵そのものが伝えてくるという気はしますけど。
Iさん 以前、瀬尾育生さんが「矢野さんは、いつ矢野さんになったの?」っていう質問をなさったんですね。
矢野 ほんと(笑)? したっけ?
Iさん ええ。「この絵にたどり着いたのはいつですか」という質問をなさったときに、昔描いた絵を見せてくださって、それは全然違ってた。で、どんなふうにお答えになったのか、私も覚えてないんですけど、いつなんでしょう。矢野さんがたどり着いたと思ったのは。
矢野 二十四、五歳のときに、一番気に入っていた、自分の感覚にぴったりした絵が描けたと思ったことがあったんです。クレヨンで描いたものですが、これはすごくいい作品だと思って、そのとき友人でもう亡くなった野田君というのがいて、この人は変わった人だったけど、絵を見る目がすごくありました。視覚的というより嗅覚的にするどかった。面白い絵は匂うというのかな。
その彼が絵を見て、「全然分からない」と言ったんです。自分ではこんなにはっきりした絵はないだろうと思っていたのに(笑)。全部が明瞭に、明快に描いてあるじゃないかと思ったけど、「こんなもの、誰も絵だとは思わない」と野田君が言ったのね。あとから考えると確かにそうなんだけど(笑)。自分の奥底にある内臓感覚みたいなものに対応してでてきた画面だと、今見るとそう思います。他の人に分かるわけはないのです。その時は、自分の見たいものだけを見ていたという感じかな。それで、自分がいつ自分になったかというと、それはやっぱり分からないけど、そういう絵の描き方から少しは変化してきたのでしょうね。
Iさん 私は素人ですけど、色も、全部に白が混じっているような、そのような色を組み合わせていた抽象画のポストカードを見せていただいたんですよ。濁らない。
矢野 それ、僕の絵?
Iさん そうそう。
矢野 ああ、そう。うん。濁らない?
Iさん 濁っていた(笑)。
矢野 濁っていた(笑)。
Iさん そう。
矢野 なんだろうね。色とか線のことは、自分の記憶の中では、経験としてはそれぞれ具体的に覚えているんですよね。だから、さるすべりの木もそうだけど、起きたことはしゃべれます。だけど、それがどのようなことかというのはうまくしゃべれない。
色に関しては何回かしゃべったんですけど、アメリカのバーモント州に行ったとき、あそこは雪がたくさん降るので真っ白の風景だった。アトリエの中も真っ白に塗ってある。そこに白い紙を貼って木炭で描いていたら、段々味気なくなってきた。それで、外を見たら雪で真っ白、中も白い壁。そこに滞在して1カ月ぐらいたったときに、色が欲しいと感じた、味のない食べ物をずっと食べていたときに塩気が欲しいと思う感じで体が要求したけど、そのときは絵の具を持っていなかったので、食堂にあったオレンジを持って帰って、皮をむいてそれを白い紙に貼ったんです。
そのときに、色は世界に存在していると感じた。色彩というのはそれ自体で存在を持っているという感じが伝わってきた。それで、赤と黄と青の絵の具を買ってきて筆で小さい紙に色を塗りました。宮沢賢治が童話を書いているときに、文字の一文字一文字が原稿用紙から出てきて自分にあいさつするという話がある、頭を下げてお辞儀をすると。書いてくれてありがとうということかな。
僕も、絵の具を塗ったときに、赤さん、黄さん、青さんと、それぞれがそこにいるっていう感じがしたの。赤というその人に会うっていうのか、色という存在は自分と対等に外側にあって、そして出会うんだという感じがした。それまでも色をいっぱい使っていたけど、自分はそのとき色に出会ったという感じになったんだと思います。そのときから色が使える気がしてきた。
Jさん いままでのいろんな体験のお話を聞いていて、全部物、物の現象というか、あんまり人間が出てこないんですよね。人間の影響を受けない。
矢野 そういえば、人間からの影響は話してないですね。
Jさん 一般的に絵描きになる人って、例えば美術大学に入るとか、そういう経歴、そうじゃない人もいっぱいいるんですけど、そういう人もいるじゃないですか。そういうアカデミックな教育を受けて。その前に、美大に入るために予備校に行って、それで切磋琢磨、ほかの絵描きの卵にもまれて、コンクールとかがあって、それで選り分けられるみたいな。そういうところを抜けていったという体験はまったくないんですよね。
矢野 ないですね。
Jさん 画家としての経歴もキャリアもね。
矢野 うんうん、ない。
Jさん いやいや、だからそれでも、人から褒められて、ちょっと自分は才能あるのかなとか思ったりするのが、わりかし普通の人間というか(笑)。矢野さんって全然そういうのがないっていう話を聞いていたことがあるから、そこがちょっと違う。
矢野 そこが違う(笑)。子供のときから、すごく生意気だとか傲慢だと言われていたんです。それが自分では分からなかった。なんでこんな気の小さい人間が傲慢と言われねばならないのか(笑)。でも、一般的評価を通過する気のない人間というのは、やっぱり傲慢なんだよね。
Jさん いや(笑)。そういう言い方もあるかもしれないけど。
矢野 例えば、反発して美術部に入らないとか、絵は好きだけど美大に行かないというのはありますけど、自分の場合は、反発じゃなくて、まったく行く必要がないと思ったの。小学生のときに、校庭のさるすべりの先生に会っているでしょう?
Jさん はい、そうですね。
矢野 だから、それ以来、自分が描いていれば、それは立派な絵だと。つまり、自分の絵を全肯定しているわけだから、傲慢ではある。自分が描けばすべて絵だと思っているわけだからね。いい絵も悪い絵もない。絵なの。うん、そうだね。
Jさん いや、でもそうあるべきだと思うんです、なにか。人と比べちゃいけないと思うのね。
矢野 でもあんまりいないよ(笑)。言うと、いつもそうやって生意気だって言われてきたからね。うまい下手とか技術的なものはあるけど、絵というのは、ある状態があって、そこに入るか入らないかだけのことだと昔から思っていた。実際、小さな子供は誰でもその状態に入って線を引いているんだよね、無自覚だけど。だけど学校なんか行くと、その状態から無理に出されてしまう。そんな遊びの場所には絵はないと、あるときに教えられて、そして、自分の場所じゃないところで絵を描かされる。そして、たいていの人は絵が苦手というか嫌いになる。でもそこには絵はないんだよね。絵というのは、肯定されればそれがそのまま絵になっているというだけのことです。
Kさん また地面に棒で描いてみたりしたいとは思わないですか。
矢野 思うし、描くよ(笑)。砂浜でも流木みたいなのを拾って、こうやって線を引く。海の砂は気持ちいいんだけど、やっぱり自分の感覚で言えば、硬い土なんだ。硬い土に硬い棒で引いていくときに起きる振動というか、それが絵を描くこととつながっている。
Kさん それって、単なる一人の見る側からすると、この絵とこの絵の線は、その感覚がもうすごく伝わってきます。なにか、脳内にその線を描かれる感じ、あるいは皮膚感。そういった動きが伝わります。私には伝わる。
矢野 さっき線が見えていると言ったけど、これも見えてはいるんです。見えているけど、分かっているわけではない。引いたあとでも、この線になんでなったのか全然分からない。
Kさん その感じですね。
Lさん そうですね。私は、この二つの作品が、近くで見たときは見えなかったんですけど、ちょっと離れると、矢野さんの言われている、ものすごく現象的なところでの線を描いているその動きが、見る者にもすごく身体的な、あるいは脳内のどこかに描かれるような感覚として起こりますけど。
矢野 そうですか。
Lさん それぞれ人によって違うと思うんですけど。
矢野 うんうん。
もうそろそろいいかな(笑)。じゃあ、佐々木さん。
佐々木 はい。では、ちょうど1時間半たちましたので、これで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。(拍手)
矢野 どうもありがとうございました。
(終)
ギャラリートーク(1)を見る
* Gさんとの質疑応答に登場した矢野静明氏の作品が装画となった書籍
装画となった作品は、「歩く人」(100×46cm 2011年 油彩・インク・キャンバス)
『SAMUEL BECKETT AND TRAUMA』
Edited by Mariko Hori Tanaka, Yoshiki Tajiri, Michiko Tsushima
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