矢野作品を視る
画家の名前も知らないまま初めて作品を視た時 (2014)から、10点の購入作品を毎日視ている現在まで、矢野作品を視る度に生じる感触がある。「人はずっとこのようにして生きてきたのだなあ、人が生きるというのは、人の生というのは、こういう感じなのだなあ」という感触である。「感覚」よりも「感触」という言葉の方がしっくり来るこの感じは、私が作品を細部まで鑑賞した後に生じるのではなく、作品画面を最初に一挙に視た時にすでに直観的に生じている。明晰な概念でも明瞭なイメージでもなく、従って「このように」とはどのようになのか、「こういう感じ」とはどういう感じなのか、よくわからないのだが。
私は視覚を通じてこの感触を得る。作品は確かに充実した視覚体験をもたらす。しかしこの感触は視覚的なものにとどまらない作品の要素から生じていると感じる。矢野作品を視るという体験を分析すると、この感触は、矢野作品から感じる諸記憶・時間・歴史の様々な配分と絡み合いにおける堆積と共存、とでも言うべきものから生じると言うことができる。但し、この感触は分析の結果生じるわけではない。
視る体験を分析してみる。視る体験においては絡み合って一体となっている諸記憶・時間・歴史は3種類に分類できそうである。
(1) 絵画「から」感じられる諸記憶・時間・歴史
(2) 絵画(鑑賞)「の」諸記憶・時間・歴史
(3) (1)と(2)を体験する私を構成し、また(1)と(2)を体験する際に動員される、私の中に常に変容しつつ堆積し共存している私の諸記憶の総体
(1)は2つに分類できる。
(1.1) 画家が画面製作に費やした時間
(1.2) 画面から感じる諸記憶・時間・歴史
(1.1)と(1.2)双方に属する要素もある。画面の様々なマチエールからなる層(複雑な地塗り、油彩あるいは水彩、インク、木炭、パステル、の重なり合い)である。
(2)も2つに分類できる。
(2.1) ある程度の長さ持続する1回の絵画を視る体験に属するもの
(2.2) こうした1回1回の体験の記憶が私の中で堆積し共存しているもの
(1.1) 作品画面には高密度で点線描が様々に配分されている。画家が点線描という行為の反復に要したであろう時間と反復行為と時間の集積としての画面。点描に関してはさらに、画家と点描と画面とが構成する音・リズムのような時間。点線描の下にある、画家本人が「それ自体で作品であると言えるかもしれない」と感じるほど作り込まれた地塗りの完成に要した時間。そして既述の画面の様々なマチエールより構成される諸層から感じられる時間。こうした時間が画面に堆積している。
(1.2) 人の生を巡る4つの時間・記憶・歴史の層が共存している。しかし人そのものが中心要素だとは感じない。
(1.2.1) 幼年期に線や点や色と戯れていた、思い出すことはできないが堆積しているものも含めた、記憶(個人史)。絵肌をよく視てみる。画面には小さく凹凸がある。画面は凸凹している。微かな汚れ・シミのような模様あるいは引っ掻き傷のような跡が微かに見える。土や砂地の表面、あるいは綺麗に崩れた地層や綺麗に割れた岩石の面を思わせる。色も土・砂・岩石を思わせるものが多い。今はもう日常でこのように間近で地表・岩石を見ることはないが、背の低さから地表が近く、また地べたに座ることを厭わない幼年期は、そのように見ることは日常の生の身近で楽しく重要な一部だったのだろうか。この絵肌の上に点と線が高密度に一見無造作に置かれている。ここでの点と線はただ描かれた点と線で意味や形象を構成していない。様々な色合いの土や砂の地表に点を描き線を引いたであろう幼年期。あるいは脆い岩石や地層をポロポロと棒で崩して、砂礫(点)、棒の痕跡(線)、残った岩石や地層の表面(地塗り)と戯れていた幼年期。思い出せない記憶も含めて、個人史的記憶の層を感じる。
(1.2.2) 民族誌・民俗誌的な記憶(集団史)。矢野作品には民族・民衆の生を想起させる要素がたくさんある。生地・鞣革・樹皮のような質感の支持体。民族・民俗的な文様、集団の生に必要な諸物を想起させる諸記号。部分で言えばT字・十字・三角形の文様の集まりは墓標を思わせる。あるいは舟、椅子、建物、何らかの道具と思しき形象が頻出する。全体で言えば地図や陣地図、あるいは織物を想起させる作品群がある。矢野作品を視ることで、自分の記憶ではない諸民族・民俗の集団史的記憶を感じる。
(1.2.3) なぜか、人にとって描くというのはこういうことなのだ、こういうことだったのだ、という感触が湧く。個人としては体験したことがない、人にとって絵を描くということそのものについての記憶(人類史)。一方で、幼年期の線・点・色彩との戯れは、文化的な差異に関わらずどこでも見られるのだとすれば、自然的な・類としての人に内在する振る舞いである可能性が高い。他方で、諸民族・民俗の生の記憶には文化的多様性がある。両者に共通しているものがあるとすれば、何が描かれているかでもいかに描くかということでもなく、描くということそのものであろうか。そうした理由でこの人類史的記憶の感触が生じるのかもしれない。あるいは人類はごく最近まで、また今でも多くの人が、地面で生活し続けてきた・いることも、この人類史的記憶が生じることと関係しているかもしれない。この辺りは後付け説明が紛れ込んでいるかもしれない。感触があることだけは確かだ。
(1.2.4) 地質・地層の記憶(地学史)。矢野作品の画面は、地層・地質の堆積・変動の歴史を想起させる。先述のように、絵肌はすでに地表や綺麗に削られた地層・岩石を想起させる。高密度な点線描とは別に、おそらくこうした点線描が置かれる以前に、(1.2.2)で述べたような形象が描かれている。点描は、地層が徐々に風化して点描以前に描かれていたこうした民族・民俗的形象を覆うに至った砂礫のように見える。廃墟と化し堆積した地層の中に沈み埋れているかのような建物もある。線で囲まれた地層的な諸部分はそれぞれ面積、形態、点線の密度、色調が異なる。視線を諸部分間で移動させてみる。諸部分は微妙な揺らぎ、例えば前面に出てきたりあるいは後方に引いたり、を示すと共に、異なった諸地質を感じさせる。諸部分は緊密に組み合い充実した画面を構成する一方で、地層の軋みやズレの予感あるいは余韻を、また軋みやズレをもたらす地層の諸力を、感じさせる。そして諸地層・地質に偏在する重力の感触。人の生の条件である重力の感触は、(1.2.1) (1.2.2) (1.2.3)の諸記憶を想起させる一因でもある。
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